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生い立ち 1

1963  3   10   長男として

兵庫県日本海  蟹の有名な 「香住」で 漁師の息子として生まれる。

当時は漁船も多く、近海の魚を取る巾着船というものがあり、魚を光でおびき寄せ

その周り約2~3kmぐらいに浮のついた網を落とし、まず下側を漁船のウインチを使い閉じていきます。

そうすると上は1kmぐらいの円、下は閉めた状態、この中に魚の群れがいます、そうです、もう捕まえたようなもんです。

あとは、どんどん網を船上に上げていきます。

私も、小学・中学のころ、船酔いを我慢しながら連れて行ってもらったことが3~4回あります。

大群の魚がばしゃ!ばしゃ!と踊りながら、ひとつの塊になっていくのは圧巻です。

近海の魚ですから、種類はいろいろ、くらげもいます。中でも太刀魚は圧倒されます。網の中で泳いでる姿は

本当にギンピカに光って、名前どおり太刀そのものです。

ただ船いっぱいになるくらい取れても 親父は 「今日はあかんな」 といいます。

当時、巾着船というのは 7~8隻ぐらいがチームになり(それぞれ、光舟・運搬船・網舟など)役割分担があります。

大漁のときは、全部の船が満タンになるほど魚が取れるそうです。

ただこうした少ししか取れないとき、網にかかるその他の魚などは、大きければみんな自宅へ持って帰って

近所に配っていました。私のところもいつも玄関に大きな発泡スチロールが置いてあり、中をのぞくと

魚がごろごろ ほとんど毎日ありました。

そんな少年時代をすごしたので、魚は好きではありませんでした、ただ近所の人たちは喜んでいましたが

 

小学校のころはお袋もよく港に手伝いに出ていたので、昼は一人でご飯を食べていた時期が結構ありました。

いつの日か、自分で料理もするようになり(少年が作るものなどたいしたことはありませんが)その影響がのちに

料理人となるきっかけです。

 

高校時代になると ちまたでは ヤンキー が流行るようになり、私の学校もその中のひとつでした

今でも、高校で何を勉強したのかあまり覚えていないぐらい遊んでいました。

3年になり、進学・就職などの話になり これといって夢も無く ただ料理を作ることくらいしか

思い当たることも無く、そのまま大阪の調理師専門学校に通うことにしました。

漁師になることも考えましたが、当時 親父から「これから漁師は不況になる」といって反対されました。

今ではそれでよかったと思っています。

 

1年の専門学校を経て、社会へ まずは お菓子の世界へ飛び込みました、きらびやかなケーキに憧れ

あんな 洋菓子を作りたいと 西宮の長崎屋に就職が決まり 意を決して飛び込みました。

そこで思いもよらない事態 なんと カステラを3年焼いてくれとのこと

そこのカステラは結構有名でしたが それを焼いているところがとんでもなかったんです。

工場の暗い裸電球の下で もくもくと愛想もくそも無い 人たちが カステラを焼いていました。

こんな暗い仕事は、やってられん と 1か月でやめてしまいました。