生い立ち 2
ここから、私の料理人人生が始まります。
その後、洋食の世界に入り、レストランを回りました、当時は司厨師協会というものがあり、全国の洋食系料理人が
会員で、各地方に支部があり、私は大阪支部に所属していました。
コンクール・大会・催し物などが開催されていました。「料理は味だろ」と考えていた私は、そういった会合に興味も無く、
ただ技術と味を求め、いろいろ回っていました、パルコにあった「レストラン カーサ」・堺にあった「パセオ41」など
洋食系を経て、ついに 「トップになるんならフランス料理や」と考えるようになり、つてを頼り、大阪のフランス料理店に
入り修行することを目指します。社団法人「クラブ関西」の料理長佐藤さんのつてで、やっとポンドシェルに入ることができました。
このときのエピソードが今でも語り草です。面接でフランス人シェフのメディックさんと面談のとき、ひと通りの面談が終わり、
最後に聞かれたことが「今日はここまで、何できましたか?」「バイクです」と私。
「ほう、君はバイクが好きなのか」「はい」「どんなバイク?」「1000ccの大きなバイクです」
「へ~それは早いね」「はい」「じゃ、仕事も速いですね」「はい」「じゃ、合格です、すぐに来てください」
うそのようなほんとの話、当時ポンドシェルは実務経験があり、フランス語が多少分かる人が入店できる条件でした、なので
ほんとのところ、私も無理なんじゃないかと思ってました。が、ごらんの状況ではれて入店することが出来ました。
あの時、メディックさんがバイクも好きで、仕事を早くできる人を求めていなければ、今の私は違う道を歩んでいたかもしれません。
それから4年各部署のシェフドパルティエ(各料理部署の頭)を経て、28歳で晴れてフランス料理店のシェフ
大阪難波の レストランアーゴ の料理長となります。
この料理長時代に、あらゆる食材を、週に3日くらいの割合で中央市場まで買出しに出て、触れることが出来ました。
当時は魚も安く、ひめじ・こち・まとうダイなども安く、まだメジァーでなかったマンゴーなども一個50円くらいでした。
今ではとても考えられません。
かれこれ、5年くらいでしょうか、アーゴでは、かなり繁盛させ、近場のヴァンサンクの原さん・シェ ワダの和田さんとも
仲良くさせていただきました、いい思い出です。
その後はいろいろの分野を経験することになります。
ざっと、ハンバーグレストラン・ホテル・スパゲティ専門店・イタリアンレストラン・オルゴールレストラン・お弁当屋さん・宅配専門店・
鉄板焼き・串かつ屋さん・うどん屋さん・熟成肉専門店・ジンギスカン・ステーキ専門店など
そして去年までは、約8年くらい、ラーメン店もやっていました。
そんな折、約5年前、病気で家内を失ってしまうことになります。
ここから私の人生も変わってきます。
当時、長男と次男がまだ学生(中3・高1)夜だけのらーめん店を営んでいたこともあり、毎日
朝、仕事を終え、帰宅後、朝ごはん作り、子供の弁当を作り、それから就寝、昼過ぎに起き、晩御飯を作り、仕事。
その途中で材料の買出し、そんな毎日を送り、息子はそのまま大学へ二人とも進学。
この、自宅のキッチンへ入りご飯を作ることが私の考え方を返させました、年齢も55歳となり、
もう現場(調理場)で働くこともしんどくなると同時に、「なんて使いにくい家庭のキッチン」という考えもどんどん
大きくなり、今では、この「使いにくいキッチンを IT・AI・先進機器を導入して、未来のシステムキッチン」
を テーマに考え、更なる家庭のキッチンの進歩を考えて行きます。
これから、今発明している器具・機器も含め、アップしてまいります。
どうぞよろしくお願いします。